ダイモの使い道

柿を頂いたので柿とモッツァレラチーズのカプレーゼを作りました。果物のサラダが苦手な人にはダメでしょうが、果物を果物らしからぬ食べ方をするのが好きなので個人的には満足です。

さーて、アマゾンでダイモを購入したのですが、無事昨日届きました。

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ラベルライターです。本当はテプラとかこはるとか買いたかったのですが、予算の都合といいますかなんといいますか・・・こっちになりました。

A型精神ですね。ファイルの整理用です。ダイモは超アナログなので、間違ってもやり直せないし・・・アルファベットと数字と記号だけ。(入力したい文字のところにダイアルを合わせてカチって押すタイプです。)でも、そのアナログさが何とも可愛かったり。

デスクに置く本も整理してみました。

BEFORE

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AFTER

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ずっとやりたくてできなかったTHE BIG ISSUEの整理も無事にできました。置いていた本たちは本棚へ帰って頂きました。空いたスペースに藤田嗣治の画集。

ファイルの背表紙に貼ってあるラベルがダイモで作ったものです。

ちゃんと背表紙にラベルを貼って並べているのが好きな辺り、やっぱりA型ですね。仕事も細かいと言われますが、そういうところが自分でも好きなので仕方ないです。

しかし、デスク左の本のタワーは健在です。今日も積まれてます。

 

頭だって大掃除

そろそろ大掃除の季節です。師走は毎年忙しいと決まっているので、来月で大掃除を終わらせにゃいかんということです。毛布とクマちゃんズもクリーニング屋さんに見送ってあげないといけないです。何だか大掃除ってわくわくします。

昨日はマスターとミーティング。色々な話をしてきました。ほぼ雑談ですが・・・その話題の中からひとつ。

疑問とかメモとか頭の片隅に残っているモヤモヤの対処法

「暮しの手帖」の編集長の松浦弥太郎氏がされていることで、通称「わからない箱」頭に浮かんだ疑問や直面した「わからないこと」をメモした紙切れが詰まっていて、ある程度溜まったら調べものを始めるそうです。「利点はわからないことの解決と同時に、自分の興味の方向性を知ることができる」との事。

なんてどうでしょう?マスター。みたいな話をしていて、メモの置き場所の話になったりしたのですが、マスターはデスクの左右に置いてあるそうです。

ちなみに私はココです。

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デスクの左側の引き出しの上から2番目です。

左右にIKEAの引き出しHELMER(ヘルメル)を2つ置いて上に板を乗せただけという超簡易デスクですが、引き出しにはあんまり物は入っていません。空の段もあります。そのうちデスクを買おうと思いつつも面倒だしまあいっか。と思って早半年。

家にある文房具はこれだけです。万年筆・3色ボールペン・消えるボールペン・油性ペン(赤・黒)・蛍光ペン(黄)・カッター・マスキングテープ・のり。

あと外出用のボールペン1本ですかね。文房具好きに見えるようですがそんなに持ってないです。

マスキングテープは食べ物の賞味期限を書くか、シフト表を壁に貼るかしか使ってないです。こんな感じ。

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おしゃれな使い道、あるみたいですが。いまいちよくわかってないです。(若いんだからもっと頑張れよって思ったりしますが)

余談はさておき、この「わからない箱」どれくらい続くかはわかりませんが、マスターもやってみるとのことなので実践してみます。

継続は力なり。まず続けることに意味がある。

否定でしか規定できないこと

一昨日から読み始めた本「人格障害かもしれない」磯部潮(光文社新書)精神科医さんが書いた本です。副題は「どうして普通に生きられないんだろう」

全八章+プロローグ・エピローグで構成されていますが、なかなか消化できていません。さらっと読むにはどうやら難しいようです。一章ずつ頭の中で噛み砕いて、ようやく昨日四章に入ったところです。

第一章、まず「人格」とは何かを考えてみる、で正常な人格と異常な人格を区別するという項目があり、そこで少し気になることがありました。

  • 「正常な人格」と「異常な人格」を対比して区別することは現実的には困難
  • 「正常」というものを正確に規定することは不可能
  • 「正常」は「異常」の否定でしか規定できない

つまりは、正常っていうものは普通だとか、みんなと同じという曖昧な表現しかできず、まず前提に「異常」がなければ規定できないってことです。正常を説明するのはとても難しく、まず異常を思い浮かべ、その否定として規定するしかない。

なるほど、確かに。初っ端から何だかムズカシイ。

精神医学とか心理学系の本は好きなのですがやっぱりどうしてもムズカシイ。思うようにページが進まない。

頭がよくなる魔法とかないですかね。

 

 

 

割れたSDの救助要請

救助要請全体から見ればさほど割合としては多くはありませんが、やはり定期的に届きます、外装が割れたSDカードからのデータ救出のご依頼が。

割れる部分としてはほとんどがSDカードの端子部分周辺。
どうしても開口部が多いためにちょっとした歪みや無理な力が加わるだけでも上下が剥がれてしまい、中の基板が露出する形になってしまいます。

で、その基板上には主役となるフラッシュメモリチップのほかにも周辺部品が実装されているわけなのですが、最近はこの部品たちの基板上でのレイアウトも少し変わってきている印象です。

以前は、SDカードといえばカード外装とほぼ同じ大きさの基板が入っていて、基板上の端子部分にはほとんど部品は配置されておらず、手前側(端子部から離れた側)に大きな部品を配置するようにカードサイズいっぱいいっぱいにレイアウトされることが多かったのですが、最近では配線距離を極限まで短くしたいからかそれとも基板コストを極限まで節約したいのか、端子に近い部分にフラッシュメモリを配置して基板そのものはLOCKスイッチのあたりまでで、残った手前側はからっぽという物をよく見かけるようになってきました。
(余談ですが、某社FlashAirなどのWi-Fi機能内蔵のSDカードでは、フラッシュメモリを端子側に配置してRFに関わるような部品を手前側に配置することで少しでも利得を稼ごうとしてたような感じですが・・・これはこれで昔からよく救出依頼品を見かけますね)

それはそれで回路設計上はセオリー通りなのかもしれませんが、抜き差しによって力のかかる部分に部品を集中させてしまうということがむしろカードへの力のかかり具合を変な方向にしてしまっているのではないかな?と思うと同時に、外装が割れてしまった場合に基板上の主要な部品に直接ダメージを与えてしまう可能性も高くなっているだろうなと考えています。

外装が割れてしまった場合には、無理やりカードを抜き差ししようとすると内部基板に直接的なダメージを与えてしまい救出不能になる可能性が高くなるだけにとどまらず、接続しようとしたパソコンやカメラ等の機器本体にもダメージを与えてしまうおそれがあるので、被害を拡大させないためにもとにかく無理は禁物です。はやい段階でお預かりできれば対処方法もありますので。

しかし、こういったカードの中の部品の配置をとってみても、SDカードなどは長期的に利用することを前提とした設計にはなっておらずこまめにバックアップを取るという使い方を大前提として設計されていると捉えることができます。

SDカードなどのメモリーカードは消耗品です。特に必要以上の大容量メモリーカードは内部破損などのリスクを伴いますので、できる限りご利用内容にあわせた容量のカードを利用していただくとともに、1年から数年程度で交換することを考えていただければ突然のデータ消失の多くは未然に防ぐことができるものと考えています。

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自然と自然

洗濯をしようと思ったら、洗剤が切れていてどうにもならないので夜に洗濯することにしました。コインランドリーが洗濯から乾燥まで一手に引き受けてくれるので洗濯日和とは無縁の生活です。

ことばというものは常にその形を変えていく生き物のようなもので、外国語という違うことばの概念が含まれると更に面白くなるものだと私は考えています。

私にとってその好奇心をくすぐられた本が「翻訳語成立事情」柳父章(岩波新書)で、もうタイトルからしてくすぐられる。そんな本の中から、今回の表題「自然と自然」について。

まず、自然(しぜん)と自然(じねん)と読むのですが、近代以後、西欧語のnatureの翻訳語として自然ということばが使われるようになりました。しかし、自然ということばは、翻訳のためにつくられた新語ではないのです。

日本語としても、仏教用語の自然(じねん)は長い歴史をもつ言葉なのです。

つまり、近代以後、今日までの私たちの「自然」という言葉には、新しいnatureの翻訳語としての意味と、古い伝統的な意味とが共存しているのです。

ざっくり書くと、

仏教用語の自然はありのままという意味です。natureの翻訳語としての自然は自然科学のことです。大きな違いはそこに精神を含むかどうか

前者は精神を含み、後者は含まない。

でも、そこに精神を含むか、含まないか、考えることってそうそうないと思います。natureの意味を書きなさいってテストで出てきたら自然って機械的に書くと思います。自然主義ということばの自然に精神を含むかなんて考えたりしないものです。でも少し立ち止まって考えてみると非常に奥が深い。

だからこそ、ことばって面白い。深くまではまってしまって、私を放してはくれないようなそんな錯覚に陥るのです。