自然と自然

洗濯をしようと思ったら、洗剤が切れていてどうにもならないので夜に洗濯することにしました。コインランドリーが洗濯から乾燥まで一手に引き受けてくれるので洗濯日和とは無縁の生活です。

ことばというものは常にその形を変えていく生き物のようなもので、外国語という違うことばの概念が含まれると更に面白くなるものだと私は考えています。

私にとってその好奇心をくすぐられた本が「翻訳語成立事情」柳父章(岩波新書)で、もうタイトルからしてくすぐられる。そんな本の中から、今回の表題「自然と自然」について。

まず、自然(しぜん)と自然(じねん)と読むのですが、近代以後、西欧語のnatureの翻訳語として自然ということばが使われるようになりました。しかし、自然ということばは、翻訳のためにつくられた新語ではないのです。

日本語としても、仏教用語の自然(じねん)は長い歴史をもつ言葉なのです。

つまり、近代以後、今日までの私たちの「自然」という言葉には、新しいnatureの翻訳語としての意味と、古い伝統的な意味とが共存しているのです。

ざっくり書くと、

仏教用語の自然はありのままという意味です。natureの翻訳語としての自然は自然科学のことです。大きな違いはそこに精神を含むかどうか

前者は精神を含み、後者は含まない。

でも、そこに精神を含むか、含まないか、考えることってそうそうないと思います。natureの意味を書きなさいってテストで出てきたら自然って機械的に書くと思います。自然主義ということばの自然に精神を含むかなんて考えたりしないものです。でも少し立ち止まって考えてみると非常に奥が深い。

だからこそ、ことばって面白い。深くまではまってしまって、私を放してはくれないようなそんな錯覚に陥るのです。