Androidのタスクはキルしちゃだめ

少し前までのAndroidスマホでは、メモリの少なさをはじめ全体的に非力であったことやOSの成熟度も低かったことから、全体的にもっさりとした感じと表現されるような遅い動作になることが多くありました。

で、それなりに詳しい方々は、できるだけ快適にスマホを使えるようにしたいと、なるべくメモリを解放させてアプリを開く速度を少しでも速くしようと考えました。

その結果、動作を休止したタスク(プログラムの1単位ですね)を見つけたらどんどん完全に停止させて占有されていたメモリを空けさせるというアプリ(タスクキラーなどと言います)があちこちからリリースされていきました。

もちろん単純には、動作用のメモリ空間は空き状態であればあるほど新規のアプリを読み込むストレスは無くなるはずなのですが、最近はそうでもないという状況になってきた様子です。

Androidのバージョンが上がるにつれて、メモリ管理が上手になってきたのか、ハードウェアが進化してきたからか、空きメモリを作ることをあまり意識しなくてもよくなってきています。

いや、むしろ利用者側からタスクを無理やりコントロールしてしまうとOS側の動作に不具合を起こすケースが出てきているかもしれません。

私の手元のちょっと古めのAndroidスマホにも以前から空きメモリ容量を監視するアプリが入っていて、空きが少なくなってくると自動的にタスクを整理してくれてたんですが、ここのところなんだか動作がやたらと重たくなる不具合が続出していました。

特に電話としての基本機能(電話帳を参照したり、着信履歴をみたり)といったことがとても遅くなり、とても実用にならない状態になっていたのですが、ある時ふとタスクキラーが気になって、試しに空きメモリが減ってきても自動的にタスクをキルしないように(つまり動作無効状態に)してみたところ、劇的に動作速度が改善しました。

どうやら習慣的に使ってしまっているアプリの中にもメモリ整理やタスク整理を行うような機能が実装されていると、それらがスマホ全体の動作をかえって遅くしてしまっている原因になっているかもしれません。
気になるほどに動作が遅かったり不具合続出という方は、一度インストールしているアプリが他のタスクをキルしてメモリ解放を行うような動作をしていないかチェックしてみたほうが良いのかもしれません。

 

記憶を文字に起こすこと

毎日パソコンに向き合って文章を書くようになって気付いたのが、どうも私は記憶を文字に起こすことが苦手なようです。何か文章を書くときに手が止まるときは記憶を文字に起こしているときです。考えていること、目に見えるものを文字にするときはスラスラと書くことができるので、ドコソコに行ってきました、という日記を書くのはとても苦手です。だから、日記というか、思い出を文字に残せる人は素晴らしいと思うので、私はその都度書き留めておかないとそのようにはなれないと気付きました。

映像としての記憶は乏しく、記憶のほとんどは静止画として残ります。高校生の頃は、駅から地上に出てくるときに、前を歩く女性のスカート、足下が一枚の写真のように記憶され、その瞬間多くの文字情報として言葉が見えてきたので、よくぞこんなものに沢山の文字が見えたなあと我ながら驚かされました。

見たものが文字になって出てくる性質(性格?)も厄介なものです。

イン・ザ・プール

よく本を読むので、時々ではありますが、面白い本を教えてほしいだとか、どうやって本を選ぶの、という質問を受けたりします。大体そういうのって感性の問題なので、人がどうこう言う話ではないのだろうと思うのですが、「イン・ザ・プール」を勧めます。(私の中では)なんといっても読みやすい。総合病院の地下にある神経科の変わったドクターと変わった患者のお話です。

「イン・ザ・プール」といえば、先日喫茶店の帰りに自転車のカゴを覗いたら、「冷静と情熱のあいだ」と「イン・ザ・プール」が放り込んであって、これは誰かからの私へのメッセージなのではないかとか、何でこの本を放り込んだのか、もしかしてもしかしてとあてのない妄想を繰り広げていたのですが、結局そんなことをしたのは一体誰なのかはわからないまま。とりあえず持って帰っておきました。

本は買わなくても頂いたり、自転車のカゴに入っていたりして増えていくので、本棚を増設しようか捨てるべきか悩んで早数日。本だけはどうしても捨てられそうにないのです。引っ越しのときにかなり厳選してきたつもりなんだけどなあ・・・

人が介在するというのは良いことで

マスターです。たまには書かないと存在を忘れられてしまいそうな気がしておりますが、なかなか最近は発信してよい情報かどうか判断に迷うような情報ばかりが手元に集まるもので悩ましいところです。

ところで、弊社あてには連日多くのお客様から郵送物が寄せられているんですが、中には(いや、けっこうな割合で)社名が微妙に違ってたり、住所や番地がまるっきり違ってたり等々「よく無事に届いたなあ」と感心するようなこともけっこうあります。

特に住所間違いは、機械的にチェックしているだけだったら確実に届かないだろうなと思われるような地名や番地の間違いも多々あるわけですが、それでも日々無事に届くというのは配達に人が介在しているからだろうなと思います。

それこそ、明らかなエラーの入り交じっている曖昧な情報から推測を重ねて、正常に配達してくれるというのは本当に頭の下がる思いとともに、人の柔軟性のなんとすばらしいことよ!と常に思うわけです。

もちろん、機械は指示したことに対して忠実です。ただ、エラーに対しての柔軟な判断は人間のほうがまだ勝っているのは確かで、それを上手に使いこなしていくことがこれからも大切なんだと日々おもいます。

 

ソファの上のわがまま猫

私の好きな本の内の一つに「長椅子の猫」という本があります。ざっくりと内容を言うと、恋人に捨てられた女性が、行きつけのバーのママ(男性)の家に転がり込んで、長椅子を居場所に与えられて「ソファの上のわがまま猫」と名付けられ、猫としてあれこれお世話される話なのですが、多分とても居心地がいいだろうなと考えてしまいます。

私が本を読んでいると周りが見えなくなって、本の世界から帰ってきません。背後で何されようがまったく気づかない。その間に、ベッドのシーツはパリッとした真っ白いシーツに変わっていて、部屋に散らばっていた本も服も綺麗に積み上げられていて、ふと一息ついたときに、コーヒーの匂いに気が付きました。私が本の世界に行ってしまっている間に何もかもしてくれていたようです。

「僕は本は読まないけれど、あなたの本の話を聞くのが好きだし、本を夢中になって読んでいるあなたが好き」だと言ってくれる、私をソファの上のワガママ猫としてお世話してくれる人がかつていました。だから、「長椅子の上の猫」を読むとその日のことが鮮明に思い出されるのです。

先日、久々に会ったときも、私はずっと本を読んでいて、人といるにも関わらず本を読んでいても何にも怒られなくて、私はまたソファの上のワガママ猫に返ったような気分でした。帰り道に、私のことを引き留めようとしましたが「さようなら」と言ったきり、連絡先も変えてしまったので、もう二度と会うことはないのだと思います。私は、追いかけられると、逃げてしまう性格なのです。