本との出会いは偶然の産物で

本との出会いって偶然の積み重ねだったりする、とよく思う。

旅先で出会った本が絶版モノだったりとか。だからネットで本を買うのも非常に手軽で良いとは思うのだけれど、本屋さんでの偶然も大切にしたいと思うのである。

今日はそんな偶然の出会いの話。

心斎橋まで用事で出かけて、ちょっと運動不足だったので一駅歩いてなんばまで歩いていた。ほぼ中間地点の道頓堀の少し外れの喫茶店(その喫茶店も少々変わっていてタバコが3本までしか吸えないと決められていた。)で当然長居することもできず、規定の3本を吸ってもう少し歩いた。

ジュンク堂という本屋に寄って帰ろうと思って、特に欲しい本もないんだけれど、寄ってみることにした。

二階の新書コーナーで面白そうな本を探っていたら、声を掛けられた。

この本ってどこにありますか?と尋ねられて、一緒に探すことになった。大きい本屋さんにある検索機から出てくる本の位置が書いてあるレシートのような紙を持っていた。

書店員のような身なりではなかったのだけれども、しっかりしてそうという理由で私に声を掛けたその男性は、本が見つかると感謝の言葉をかけてくれたのだけれど、ふいに話がはずんで、しばらくその本を抱えたまま話をした。

その本をパラパラとめくるとわかりやすく書いていて、私はその分野に全くといっていいほど疎かったので私も買うことにした。

私が全く行ったことの無いコーナーだったし、あの喫茶店がタバコが3本までじゃなかったら私はもっと喫茶店に長居していただろうし、そう考えると偶然の積み重ねが彼と出会うきっかけとなり、今こうしてその本を選んだのだろうと思うとある種の奇跡に近いのだろうと思った。

さて、早速読んでみることにしよう。イスラム国についてなんて昨日まで考えてもなかったのに。

振り返ってみると食事に誘われたから、あれはナンパだったのかもしれない。勿論、丁寧にお断りはしたのだけれど。

 

De omnbius dubitandum.

今日はカッコよくラテン語でのタイトルです。

読み方は「デー・オムニブス・ドゥビタンドゥム」
De:について
omnbius:すべて
dubitandum:dubito(疑う)の言わば変化形
デカルトの方法的懐疑の表現で「一切を疑うべし」ということです。

そう言えば、高校生の時に英語の時間で「好きな言葉は?」
と聞かれたときにI think, therefore I am.と答えました。

I think:私は思う
therefore:それゆえに
I am:私は存在する

自分は本当は存在しないのではないか?と
疑っている自分自身の存在は否定できない。

「我思う、故に我あり」と訳すあたりが素敵だと思います。
何故そのように訳したのかという背景を探ってみるとこれまた面白い。

最近仕事等々でDe omnbius dubitandum.と思わされることが増えました。
学問と同じで疑うところからはじめなさいということなのでしょうか。
そういう姿勢で仕事に向き合うことも必要なのかなと思います。

根本的問題はさておき・・・と言ったところではあるのですが。

他言語コミュニケーション

 

遂にBluetoothキーボードを買ってしまいました。
使い物にならなくてもいいやくらいの値段(1550円)だったのでついつい。

スタンドはないですがタッチ操作と併用せにゃいけないので、左隣に置いています。
折りたたみタイプではないので、持ち運びするかどうかはちょっと不明ですが。
これで長文入力が快適になりました。良かった良かった。

今日は「他言語コミュニケーション」について。昨日に引き続き言語の話題。
昨日ちょっと日本語の怪しいベトナムの方と話す機会が仕事でありまして。
英語のコミュニケーションもお互いに難しいけれど、さすがにベトナム語は出来ないので、Google翻訳のアプリを使って、英語→ベトナム語で文字入力をして翻訳をしてもらって画面を見せて会話するという不思議な光景。

以前には日経ブラジル人とコロニア語でコミュニケーションを試みたりもしました。
ブラジルの言語はポルトガル語です。ざっくりわかり易く言うとルー大柴語みたいなものでブラジルの日系社会で話される日本語をコロニア語と言います。
たとえば、ポルファボール、ここにセウノーミをエスクレーバしてください。テレフォーニをテーニョしてなかったらセウマリードのでもOKですよ。

ちょっと私のポルトガル語も段々怪しくなってきましたが、
つまりは「ここにあなたの名前を書いてください。携帯電話を持ってなかったら旦那さんのでもOKですよ」ということです。

まあ通じたのでOK。

他言語コミュニケーションって楽しいですね。
そういう機会が増えていくともっと楽しいんじゃないかなあ。

justの用法

今日は「justの用法」について。久々?に英語の話。

最近英語に触れる機会もめっきりと減ってしまって何とも残念なことで。
少しずつ復習しておかないと抜けてしまうことを危惧しております。

(とはいってもペラペラという訳でも無く聞き取れないことが多い)

復習とは言っても、洋画や洋楽で気になったフレーズを訳してみたり用法を調べてみたりする程度ではありますが。

最近復習するとすれば読む本はコレ。
「ビッグファットキャットの世界一簡単な英語の本」向山敦子+向山貴彦(幻冬舎)
「英語ライティングルールブック」デイヴィッド・セイン(DHC)

早速justの用法について。

GREEN  DAYの「BASKET  CASE」という曲から。
Am I just PARANOID? I’m just STONEDという歌詞。

justのニュアンスについて調べてみました。英語ライティングルールブックでは、完了を表現するとしか書いてなかったので、ここはGoogle先生に頑張って頂こうと。

結果として分かったことは、
justは難しい質問を相殺できる何とも便利な言葉だということ。

あとはニュアンスとしては
Just a friend.(ただの友達よ)
Just looking.(ただ見てるだけ)
というようにただ(の)○○よという表現をしたり、

Just holt it!(いいから握ってて!)
Just  I like it!(とにかく好きなの!)
というようにいいから、とか、とにかくという表現をしたり

Just 1 minite!(1分だけだから!)
Just a second.(少しだけ待って)というように○○だけ!だったり

あとは
I’ve just arrived here.(ちょうど今着いたところだよ)
I’ve just finished my work.(ちょうど仕事が終わったところ)

みたいな表現をしたり用途は様々ですが、

Am I just PARANOID? I’m just STONED.だったら、
俺ってただのパラノイド?いやヤクに狂ってるだけだよ。

といったところですかね。少し賢くなりました。

世界で一番短い詩

 

春の1枚。提供は妹。

何事にも余白って大切だと思う。人と話すときの間とか、部屋に物を置き過ぎないとか、そういうのも余白だと思う。この写真の余白も好き。ことばも大切だけれど、余白の部分ももっと愛でなくてはならない。

 

今日は「世界で一番短い詩」について。普段詩なんて読まないけれど(そういえば家に「中原中也詩集」があったくらいだと思う)

草野心平の「冬眠」という詩。

その内容は「冬眠」という題名と「●」だけ。蛙の冬眠を表現しているものだと言われているけれどこれくらい潔いと寧ろ良いよね。

余白と●だけ。シンプルで斬新な構造。当時これは詩なのかと物議を醸したというが、余白の味わいを最大限に生かしていると思う。これくらいシンプルな人間になれたらいいな。