ニベアの話

夏といえば露出が増える。(とは言っても長袖、ストッキング派です。)

とはいえども、スキンケアに気を遣わなければならない年頃になってしまいました。乾燥は女の敵です。潤いのある肌でなければという強迫観念はさておき。

だけど、お風呂上がりに塗るボディクリームがベタベタする気がするのと面倒なのでどうも苦手意識があって、結局続きませんでした。

そんなとき、良いの見つけて来ました。

  
ニベアのインシャワーボディローションっていうもので、お風呂から上がる前の濡れた肌に塗ってシャワーで流して完了。

こういうの素敵。値段も素敵500円くらいだったはず。心なしかお風呂上がりの肌がしっとりしているような気がします。私のような、面倒くさがりにはぴったり。化粧品等々に疎い私でもさすがにニベアは知っております。

ムダ毛の処理だとかスキンケアとか女子というのは非常に大変ですが、どうせだったらカサカサよりはしっとりした肌のほうが、ええ自己満足です。

ニベアの話というよりもスキンケア事情になってしまいましたが、「人のセックスを笑うな」という小説に出てくる、主人公が恋する女性はニベアを塗らないのですが、それでも魅力的な女性になれたら一番いいのかもしれません。

【読書日誌】中原中也との愛

読書することを忘れてしまったかのように、本から離れたところで暮らしていたのですが、これがまた思い出したかのようにまた読書をすることとなりました。

「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」長谷川泰子・村上護編(角川ソフィア文庫)です。


中原中也の詩集が家にあったので、それを読む前に読んでおきたい一冊でした。女優志望の泰子には詩人中原中也との出逢いがあり、共に暮らし、そして別れがあって、更に評論家小林秀雄との出逢いと別れがありました。彼女の潔癖症について書かれていたり、それに対して小林が「シベリア流刑」だと言ったのが印象深いです。昭和初期の文壇の分かる一冊だそうですが、その頃の文壇に造詣が深いわけでもないので新鮮な気持ちで読み進められました。知っている方の名前も出てきたので飽きずによめましたし、この頃の文化や文壇を知るべく、高校時代の国語便覧でも読んでみようかなという感想です。

中原との別れのあとも、付き合いは途切れたり続いたりしながら、彼の死までを、中原中也の詩を織り交ぜながら綴っています。

その本の中でドッグイヤーしたページがひとつあって、中原が泰子さんに宛てた手紙の一節を引用した部分の最後。

打つも果てるも火花の命。

この言葉に何だかグッとくるものがありまして。ちょうどその時、友人とビールを飲み、軽くつまみながら読んでいたのですが、つい口ずさんで、頁の端をそっと折りました。

打つも果てるも火花の命。

私にも数は少ないですが一緒に食事をする相手はいて、その時は男性だったのですが、彼は特に本を読むことに対して何も言いません。中原中也という名前を聞いたことだけはあるといったぐらいですから、読書の話をするわけでもなく、各々に好きなことをして過ごすわけです。

私の周りにはそういう人間が結構いて、熱く何かを話すこともありますが、大体はお酒の途中でギターを弾きだしたり、失恋の感傷に浸って深酒をして眠りについてしまうので、お互い干渉するわけでもなくただ同じ空間にいるだけということが多いのです。

なので、お酒と人という組合わせは素敵な読書空間になり得るのです。

とまあ、横道に逸れてしまいましたが、中原中也との愛、興味のある方は是非。

透明の中に

最近の流行、シースルー。前髪もスカートもシースルーが今時。

そして、透明なクラッチバッグがキテるらしいです。
クリアクラッチというらしいです。
(※クラッチバッグとは所謂セカンドバッグみたいなやつ)

ちょっと画像を拝借させていただきました。

  
でもね。透明だったら中身バレバレ。
中身にも気を遣わないといけないじゃないですか。

中にアクセントとなる小物を入れて!とか、カラーを統一して!とか。
難しいというか大変というか。持ち歩く中身すらファッションなんですね。
文庫本とかも選んで入れなくちゃいけないんですね。

クラッチバッグ自体持ち歩くのに難儀するのに透明ときたらもう挫折の域です。
片手塞がっちゃうのに。(一応持ってるんかよって感じですが)

 

余談ですが、「なかみ」で変換した一発目が「仲美」。
多分国語学者の山口仲美さんのことだと思うのですが。「日本語の歴史」っていう本書いておられる方だったかな。記憶が定かではないですが。使用者の事をよくわかってる、恐ろしい学習機能です。

 

 

普通について考える

先日書いた「普通が一番難しい」というテーマの続編のようなものですが。

まず、定義がハッキリとしないこの言葉。Google先生に「普通 意味」と問いかけると以下のような回答が。


ただ、誰にとっての普通なのか。どこを基準にしての普通なのか明示はされていないわけで。それだけ世の中にありふれている言葉なのかもしれませんが。

個人的解釈を述べると、そこには「私にとっての」という言葉が大前提として省略されているようにしか思えないのです。

普通という言葉は普(あまね)く通じるという意味なのだろうということなのですが、そうなると普くという言葉さえも追いかけなければならないような、気の遠くなるような作業なのは目に見えています。

他言語の視点から普通について追いかけてみると面白いかもしれません。英語でいうならregularだったり、normalだったり、usuallyだったりがパッと浮かんだ単語ですが、出来ることならば、それぞれの語源について探ってみたいです。

言葉の海は深くて広い。その舟は無事に目的地に着くのでしょうか。何だか「舟を編む」のようになってしまいましたね。

普通が一番難しい

ファッションの世界でも「ノームコア」なる究極の普通が流行しました。

個人的な感想では、私自身、多分同年代よりも服は少ない。
それは友人の引越しの手伝いをしたときにも感じたし、
妹の部屋を見てもそう感じました。

極々普通の恰好。ファッションに流行を求めないので、何を着ていいのか迷うことが少なくて、(それは職場が制服なのも大きく関係しているのかもしれないけれど)服は沢山あるけれど着る服が無いという矛盾に陥ることはありません。ある意味無頓着。

だけれども「思考」「行動」において「普通」というのは一番難しい。
「普通に考えたら」という前置きが上手に理解できない。何を以て、何を基準として普通なのかがさっぱわかりません。

だからと言って私が変わり者であるという訳では決してなく、奇を衒う訳でもなく、
(「単純なのに分からない」と言われる性格の持ち主だそうですが)理解力がないだけなのか、物事を複雑に考えているのか、「普通」ということばにいつも悩まされるのでありました。

その普通は誰にとっての普通なのかと小一時間問い詰めたい気分です。