パラレルな世紀への跳躍

何か書こうとして、悩んだとき本棚の前で腕組みをします。あるいは、その前に置いてあるタワーファンに上体を少し乗せて本棚を眺めます。昨日冷蔵庫の掃除をしたことについて書こうかなとも思いましたがあまりにもどうでもいいことなので、今日目があった本について、「パラレルな世紀への跳躍」太田光著(集英社文庫)です。大胆なエッセイ。

私はあまりエッセイの類は読みません。どちらかというノンフィクションよりフィクションのほうが好きで、日常の中の非日常を面白がって読むタイプなのですが、意外と面白く読めました。

その中に「藤田嗣治」をテーマにした文章があって、藤田嗣治好きとしては何とも嬉しいことなのですがページ数はそんなに多くない。(近いうちにブログのテーマを藤田嗣治についてにしようかと思っています、このまま書いてしまうと藤田嗣治のテーマになってしまいそう。)

この「パラレルな世紀への跳躍」を選んだ理由はなんせタイトル買い。爆笑問題の太田光がエッセイを書いていて・・・というのはむしろ二の次。語感が好きで買ってしまいました。(「アンドロイドは電気羊の夢を夢を見るか?」フィリップ・K・ディック著に惹かれるのに似たような感覚・・・読んだことはないですが)

あーあ、頭がまだ働いていません・・・今日は比較的さらっとした文章ですが、次はしっかりとした文章を書きたいものです。

「我々は止まるのではなく、新しい価値観を生み出す為に、むしろスピードを上げて思い切った跳躍をするべきなのだ」(パラレルな世紀への跳躍・本文より)

 

女子の部屋

昨日は休みだったので、高校時代の友人の引っ越しの手伝いに行ってきました。

部屋に家具と段ボールがどーーん状態。あゝ女子の部屋。家具が赤!家電がピンク!(私の友達の家はなぜかオール黄緑とかオール黒とかそういうのが多い)

そして女子の部屋はなぜか物が多い!想い出の品やら、大量の洋服やら、化粧品やらをひたすら整理。とにかく整理。一人暮らしでティファール一式は多分いらない。友達に渡せなかったお土産とか、1本足りない箸とか、謎のアイテムはとにかく処分。

自室の物の少なさを実感した一日でした。そうは言っても、自室にも掃除したい箇所はあるわけで、たとえば冷蔵庫とかクローゼットとか、デスクの隣の引き出しも何とかしたい。そう考えると自室について見つめなおすいい機会でした。

写真 6

ここの!この行き場を失ってとりあえず積んでいる本たちを!!ある程度本が増えないとどう置こうかも決まらないので、当分このままだと諦めてはいますが・・・

少ないもので豊かに暮らす。そんな風になれたらいいなあと思う今日この頃です。

情報過多の世の中だから

情報過多になると癇癪を起こす性格です。とくにスケジュールなんてものは大の苦手で予定の整理整頓に四苦八苦する毎日です。

とにかくやることが覚えられない!ので有料の「Due」というリマインダーアプリを導入してみました。予定をポンポン入れておいて予定の日の朝にアラームが鳴るようにセットしています。タイマーもついているので、何かと重宝しています。ダブルブッキングの常習犯にはこういう便利なアイテムが必要なようです。

自室もとにかく整理整頓です。その昔、物を捨てられない人と生活を共にしていたので、よく癇癪を起していました。目で見たものが文字になって見える人間なので、ある程度シャットダウンしないと発狂してしまいそうです。

情報のインプットとアウトプットのさじ加減がどうにもこうにも難しいです。

最近はブログを書いているのでアウトプット過多になりそうなので、もっと本を読まないといけないなあと思います。

 

 

余白を愛でる

我が家に数学の本がちらほらありますが、数学はどうも苦手です。世にも美しい数学入門(藤原正彦/小川洋子)はまだ読みやすかったですが、もう少し数学への苦手意識を克服するために数学の本を読むことにしました。数学入門(遠山啓)をただいま手に取っています。今は2進法についてです。0と1だけで表現する。0の存在には感謝しなければならない、東洋文化の賜物です。そんなことを考えていると、ことばの美しさと数学の美しさはきっと似ているはずなのでその美しさに触れてみたいと思い、数学入門してみることにしました。

0と言えば、ことばの美しさと同じくらい大切にしているものが「余白の美しさ」です。(マスターのお手伝いではないほうの)仕事柄、文書を書くことが多いので、そのときは余白の美しさを意識します。つまり、余白の取り方を変えた文書を何パターンか用意して見比べ、どれが一番美しいか考えます。「そこまでしなくてもいいよ」「一緒だと思うよ」とは言われますが、余白にだって語るものはあるわけで、生活にも余白は存在するわけで、その余白を愛でることは楽しい行為だと思うのです。実際にその一行の余白で、存在自体ががらりと変わることだってあるのに。

凍ったトマトの行方

読書のペースダウンに悩まされています。本に夢中になっていたときほど本が読めない。読みたい気持ちだけが空回りして、結局ページが進まない。論文も思ったほど読めないことがつらいです。そういうときは、比較的ライトな文章とか、過去に読んだ本とか、頭にやさしい本を読むことにしています。そうすると知らず知らずの内に頭が読書モードに切り替わって周りが見えなくなるほど夢中になってしまうのもそれはそれで悪い癖ではありますが・・・

さて、この頭にやさしいの「やさしい」

私はやさしさについて考えるときがあります。なぜなら私はやさしくはないから。私は誰かに何かをするとき、それはそうしたいからするのであって、ある意味相手の都合なんてお構いなしです。それが結果として相手にとってやさしいことであったとしても私のエゴで動いているだけなのだから、私にとってそれはやさしいことではないと思っています。

そしてやさしさについて考えるとき、真っ先に浮かぶ本は「やさしさの精神病理」という大平健氏の本です。赤岩波です。席を譲らない「やさしさ」、好きではないけど結婚してあげる「やさしさ」、「やさしい」関係に以上にこだわる現代の若者、精神科を訪れる患者を通してその心を読み解く一冊です。「やさしさ」につまずいたときにちょうどいい一冊です。

さて、「やさしさ」のゲシュタルト崩壊が起こったところで、冷蔵庫のトマトの様子を見てきます。熟れていたトマトを緊急で凍らせておいたので、今日の昼食に使おうと冷蔵庫に移しておきました。