否定でしか規定できないこと

一昨日から読み始めた本「人格障害かもしれない」磯部潮(光文社新書)精神科医さんが書いた本です。副題は「どうして普通に生きられないんだろう」

全八章+プロローグ・エピローグで構成されていますが、なかなか消化できていません。さらっと読むにはどうやら難しいようです。一章ずつ頭の中で噛み砕いて、ようやく昨日四章に入ったところです。

第一章、まず「人格」とは何かを考えてみる、で正常な人格と異常な人格を区別するという項目があり、そこで少し気になることがありました。

  • 「正常な人格」と「異常な人格」を対比して区別することは現実的には困難
  • 「正常」というものを正確に規定することは不可能
  • 「正常」は「異常」の否定でしか規定できない

つまりは、正常っていうものは普通だとか、みんなと同じという曖昧な表現しかできず、まず前提に「異常」がなければ規定できないってことです。正常を説明するのはとても難しく、まず異常を思い浮かべ、その否定として規定するしかない。

なるほど、確かに。初っ端から何だかムズカシイ。

精神医学とか心理学系の本は好きなのですがやっぱりどうしてもムズカシイ。思うようにページが進まない。

頭がよくなる魔法とかないですかね。

 

 

 

割れたSDの救助要請

救助要請全体から見ればさほど割合としては多くはありませんが、やはり定期的に届きます、外装が割れたSDカードからのデータ救出のご依頼が。

割れる部分としてはほとんどがSDカードの端子部分周辺。
どうしても開口部が多いためにちょっとした歪みや無理な力が加わるだけでも上下が剥がれてしまい、中の基板が露出する形になってしまいます。

で、その基板上には主役となるフラッシュメモリチップのほかにも周辺部品が実装されているわけなのですが、最近はこの部品たちの基板上でのレイアウトも少し変わってきている印象です。

以前は、SDカードといえばカード外装とほぼ同じ大きさの基板が入っていて、基板上の端子部分にはほとんど部品は配置されておらず、手前側(端子部から離れた側)に大きな部品を配置するようにカードサイズいっぱいいっぱいにレイアウトされることが多かったのですが、最近では配線距離を極限まで短くしたいからかそれとも基板コストを極限まで節約したいのか、端子に近い部分にフラッシュメモリを配置して基板そのものはLOCKスイッチのあたりまでで、残った手前側はからっぽという物をよく見かけるようになってきました。
(余談ですが、某社FlashAirなどのWi-Fi機能内蔵のSDカードでは、フラッシュメモリを端子側に配置してRFに関わるような部品を手前側に配置することで少しでも利得を稼ごうとしてたような感じですが・・・これはこれで昔からよく救出依頼品を見かけますね)

それはそれで回路設計上はセオリー通りなのかもしれませんが、抜き差しによって力のかかる部分に部品を集中させてしまうということがむしろカードへの力のかかり具合を変な方向にしてしまっているのではないかな?と思うと同時に、外装が割れてしまった場合に基板上の主要な部品に直接ダメージを与えてしまう可能性も高くなっているだろうなと考えています。

外装が割れてしまった場合には、無理やりカードを抜き差ししようとすると内部基板に直接的なダメージを与えてしまい救出不能になる可能性が高くなるだけにとどまらず、接続しようとしたパソコンやカメラ等の機器本体にもダメージを与えてしまうおそれがあるので、被害を拡大させないためにもとにかく無理は禁物です。はやい段階でお預かりできれば対処方法もありますので。

しかし、こういったカードの中の部品の配置をとってみても、SDカードなどは長期的に利用することを前提とした設計にはなっておらずこまめにバックアップを取るという使い方を大前提として設計されていると捉えることができます。

SDカードなどのメモリーカードは消耗品です。特に必要以上の大容量メモリーカードは内部破損などのリスクを伴いますので、できる限りご利用内容にあわせた容量のカードを利用していただくとともに、1年から数年程度で交換することを考えていただければ突然のデータ消失の多くは未然に防ぐことができるものと考えています。

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自然と自然

洗濯をしようと思ったら、洗剤が切れていてどうにもならないので夜に洗濯することにしました。コインランドリーが洗濯から乾燥まで一手に引き受けてくれるので洗濯日和とは無縁の生活です。

ことばというものは常にその形を変えていく生き物のようなもので、外国語という違うことばの概念が含まれると更に面白くなるものだと私は考えています。

私にとってその好奇心をくすぐられた本が「翻訳語成立事情」柳父章(岩波新書)で、もうタイトルからしてくすぐられる。そんな本の中から、今回の表題「自然と自然」について。

まず、自然(しぜん)と自然(じねん)と読むのですが、近代以後、西欧語のnatureの翻訳語として自然ということばが使われるようになりました。しかし、自然ということばは、翻訳のためにつくられた新語ではないのです。

日本語としても、仏教用語の自然(じねん)は長い歴史をもつ言葉なのです。

つまり、近代以後、今日までの私たちの「自然」という言葉には、新しいnatureの翻訳語としての意味と、古い伝統的な意味とが共存しているのです。

ざっくり書くと、

仏教用語の自然はありのままという意味です。natureの翻訳語としての自然は自然科学のことです。大きな違いはそこに精神を含むかどうか

前者は精神を含み、後者は含まない。

でも、そこに精神を含むか、含まないか、考えることってそうそうないと思います。natureの意味を書きなさいってテストで出てきたら自然って機械的に書くと思います。自然主義ということばの自然に精神を含むかなんて考えたりしないものです。でも少し立ち止まって考えてみると非常に奥が深い。

だからこそ、ことばって面白い。深くまではまってしまって、私を放してはくれないようなそんな錯覚に陥るのです。

我が家の本棚事情

昨日、なんとローソンでトミカが売っていたので購入してしまいました。勿論パトカー・・・しかし被りました。左と中央は全く同じです。日産マーチの埼玉県警。

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今日は我が家の本棚事情について。

大きい本棚を買えばよかったのでしょうが、8畳1kの家に大きい本棚を買うべきなのか、そして引っ越しするときに本をかなり厳選してきたつもりで、細長い小さな本棚を買ったのはいいものの、半年でそんなに本は増えないだろうと思っていたにも関わらず本はみるみるうちに増えてしまい。床積み状態です。

本棚を買うべきなのか悩んで悩んで何か月も過ぎていったのですが、本を手放すことも出来ず、電子書籍も好きになれず、途方に暮れている状態です。

どうしても紙の手触りとか古書だったら埃っぽい匂いが好きで、本の自炊(スキャンしてデータ化すること)が流行しているようですがその波に乗る気はさらさらないのです。

よく小説でも出てくるんですよね、沢山の本に囲まれて暮らす主人公。でも、それって小説の中の世界だからいいのであって、現実問題掃除もしにくい・・・

壁一面本棚って憧れます。

悩みごとは猫に話して

せっかくの休みなんだったら映画でも観に行けばよかったかな、ってちょっと後悔しました。

最近は悩みごとを人に話すことができるようになりましたが、とは言ってもその大体が報告スタイルで、こういうことがあって、こんな風に考えていてって人に伝えること多いのですが、ほんの少し前までそれが上手にできず、猫に相談していました。(もちろん我が家のクマちゃんズに話す癖は今も健在)

16のときは塾の近くの野良猫にひたすら自分の悩みを打ち明けたり、今年の春までだったら、実家の近くの公園にいる猫に話しかけたり。

実家の近くの猫は勝手に「つーちゃん」と名付けていました。オスかメスかは知らないけれど、藤田嗣治から取ってつーちゃん。

公園のベンチに寝転がって読書をしていると、急に重みを感じて見てみるとつーちゃんが乗っかっているのでそのまま悩み相談。そのまま肩に乗せて自転車に乗ったり、なんとなく昨日あったことを話したり。それで大体2時間くらい時間を潰していました。

ちょっと痛い子ですが、猫はそれを誰かにバラしたりはしないし(いや、つーちゃんの友達の猫にくらいは話しているかもしれないけれどそれはまあいいや)、人と話しているくらいなら猫と話しているほうがよっぽどいいなんて思っている時期もありました。

つーちゃんが人じゃなくて猫だったから仲良くできたのかな。つーちゃんもつーちゃんでよく付き合ってくれたなあなんて思います。

でも人に話すようになって良かったなと思うようになりました。だって、猫はアドバイスくれないんだもん。にゃーって鳴くだけ。

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